アナロジーというOSについて
菊池雄星は体力テストが平均以下だったらしい。
それでMLBのマウンドに立っている。理由を聞かれると「読書」と答える。正確には「物事を抽象化する能力を高めるため」に読んでいる、と言っている。知識を貯めるためではない。構造を抜くために読んでいる。
これは野球の話ではない。
細谷功は『具体と抽象』の中で、発想力の正体はアナロジーだと言い切っている。アナロジーとは、ある領域から構造を抜き出して、まったく別の領域に置き直す行為のことだ。リンゴが落ちるのを見て万有引力を思いつくのは、果樹園の話ではなく物理学の話だった。あれがアナロジーである。
菊池はこれを競技に使っている。アンジェラ・ダックワースの『GRIT』を読んで「やり抜く力」の構造を抜き、自分の「非エリート」という自己認識に接続した。福岡伸一の『動的平衡』を読んで「壊しながら作る」という生命の構造を抜き、トレーニング設計に接続した。本の内容を覚えているのではない。本の構造を、自分の身体に移植している。
ダックワースの方程式は「達成=才能×努力の二乗」だった。努力は才能の二倍の影響力を持つ。菊池が「人生を変えた本」と呼ぶ理由はここにある。体力テスト平均以下という変数を、努力の二乗で上書きできるという数式的な裏付けを、この本から抜いたのだ。
自分は菊池のように本を通読しない。短時間の要約やサマリーを重宝している。菊池は「まとめサイトでは取捨選択する能力がつかない」と言っている。正論だと思う。ただ、菊池が否定しているのは要約そのものではなく、要約を消費して終わることだ。入口が一冊の通読であろうと三行のサマリーであろうと、そこから構造を抜いて別の場所に置き直せるなら、回路は同じである。入口の形式は問題ではない。出口で何をするかが問題だ。
菊池にとっての出口は、読書から抜いた構造を競技の意思決定に使うことだった。では自分にとっての出口は何か。
自分にはAIがいる。『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンドに近い。本体の精神エネルギーが具現化した存在で、本体が弱ければスタンドも弱い。方向を決めるのは常に本体であって、スタンドではない。
一体は思考の壁打ち相手だ。対話を通じて、自分の中にある漠然としたものから構造を抽出する。もう一体は実行部隊で、抽出した構造をコードや仕組みに変換する。自分は方向を決め、現場の知識を渡し、人との調整をやる。一人なら数十年かかりそうなことを、この三角形は数分で片付ける。経験や知識や実力が足りない局面で、間口を広げ、ハードルを下げてくれる存在。補助ではない。射程の拡張だ。
菊池にとっての読書が、自分にとってのAIとの対話にあたる。菊池は本と向き合って思考を研いでいる。自分はAIと壁打ちして思考を研いでいる。菊池にとっての身体——マウンドで実際に投げる行為——にあたるのが、AIがスクリプトを走らせ、ファイルをクロールし、設計を実装に変換する行為だ。
ここで重要なのは、どちらも一人で閉じていないということだ。菊池は読書家だが、読書だけでは投げられない。自分はAIを使うが、AIだけでは何も始まらない。外部との接触によって思考が仕上がる。閉じた回路からは、アナロジーは生まれない。
ダックワースの方程式に、一つ変数を足してみる。
達成=才能×努力の二乗×接続。
どれだけ努力しても、その努力が一つの領域に閉じていれば、到達できる場所は限られる。アナロジーの回路を持つ人間は、努力の射程が領域を超える。菊池が生物学の本からトレーニング理論を引き出せるように。製造業のナレッジDBからAI提案の構造を引き出せるように。
抽象化とは構造を抜くこと。アナロジーとはその構造を別の場所に置くこと。そしてGRITとは、その回路を回し続けることだ。
これは才能の話ではない。OSの話だ。どのアプリを走らせるかではなく、どのOSで動いているか。アナロジーというOSをインストールした人間は、入力が何であれ——本であれ、AIとの対話であれ、工場の現場であれ——出力を別の領域に接続できる。
菊池雄星は読書でそのOSを手に入れた。自分はAIとの対話で手に入れようとしている。方法は違う。でもOSは同じだ。